江戸から明治になったとき、新明治政府軍と旧幕府軍による戊辰戦争で、天皇を園部にかくまうことになったのと同じように(参照:園部城と城下町)、第二次世界大戦においても園部は本土決戦体制の軍需都市として守りを固めることになり、その準備は密かにかつ着々と進んでたといいます。これまた、実際に本土決戦になることなく終戦を迎えたため、人々の記憶からは忘れさられてしまいましたが、遺構は確認できました。今回はその不思議に迫ります!

1944年7月にサイパン島が陥落したとき、ここを基地とした米軍のB29による本土空襲が始まると、軍需工場が大都市から地方へと疎開しだします。このとき園部にも大阪造兵廠という軍需工場が疎開してきました。その工場は、市街地の南西郊外にある府立淇陽学校の裏山の振天山から、佛教大学園部キャンパスのある戸倉山にかけての山裾一帯を中心に町内各地にいくつもの目立たない施設として散在していたそうです。園部大橋に近い園部中央公民館裏の一帯には、飛行機の部品をつくる「日国工業」という工場もあったそうです。今となっては学校の建設工事などによって跡形もなく無くなってしまいましたが、たいがいは山の斜面につくられ、正面を2メートルほどの土盛で目隠しをしたような施設のようでした。そして振天山山頂には高射砲が2〜3基あったそうです。そして、桜で有名な府立淇陽学校の振天山を周回する道路(上の写真参照)は、工場疎開の際に作られたものだと言われていますが、遺構は完全に破壊されておりこれといった「発見」はできませんでした。しかしながら、何が造られていたのかなどの詳細は、残念ながら「軍事機密」ということで、当時から工場についてのウワサさえはばかられる雰囲気だったため、現在になっては誰にも正確なことはわからないのだそうです。

大阪造兵廠とは、大阪城東側の一帯(大阪城公園)の広大な敷地を占めた陸軍の大軍需工場で、火砲(大砲)関係を担当する最大級の施設だったそうです。
京都国際建築技術専門学校の道を挟んだ向かいの山、五合山の山裾には陸軍の地下変電所があり、地下に数十メートルにもわたる大きなトンネルが何本かあったそうです。 数年前までは、まだ地下トンネルへの入り口が開いていたのですが、2005年9月に確認したところ、土が崩れて入り口は埋まっていました。(左の写真)工場や地下トンネルの建設には、強制連行された朝鮮人労働者が多く働かされたそうです。この遺構も、近々、京都国際建築技術専門学校の校地拡大によって壊されてしまうと思います。

 

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