<古代の園部>
亀岡から園部にかけての盆地には、かつて水が溜まっており、「丹波湖水」という琵琶湖並みの湖だったといいます。おそらく縄文人は、この湖の周辺で狩猟・漁労・採取を中心とした生活を送っていたと考えられています。そもそも「丹波」という地名そのものが湖に由来するものなのです。「丹」には「赤い」という意味があり、湖に赤土の泥の色をした赤い波がたっていたことから「丹波」と呼ばれるようになりました。 亀岡市上矢田にある鍬山神社の縁起によると、『昔、丹波は水戸峠から山本の浜まで湖であった。出雲の大神が多くの神々と共に天下を廻り、国つくりとして丹波へこられた時、四方山に囲まれた丹波は泥海で、悪獣が人々を傷つけ苦しめていた。』と書かれており、園部の熊崎にある都々古和気神社の縁起にも『往古は、この国、湖にて泥土赤色なり、風吹けば即ち波高なり、その色、日に映えて赤し…』との記述があります。
弥生時代の遺跡としては「曾我谷弥生遺跡」や「半田遺跡」があり、出土した土器には畿内弥生後期の特徴である「タタキ技法」が極めて強く表れており、畿内地方との強い結びつきが示されており、また、現状では曾我谷遺跡が「タタキ技法」の北限をなしています。弥生後期に「丹波湖水」の水が抜けたようで、鍬山神社縁起に「出雲の神、亀岡湖水を開き、国土を開拓す」とあります。
古墳時代の前期古墳(4世紀)としては黒田古墳、中畷古墳、垣内古墳などがあり、垣内古墳は口丹波地方(大井川水系)では最大の古墳(全長84メートル、後円部直径約50メートル、前方部幅約9メートル)で、大和の持つ高い技術と文化をみることができます。中期古墳(5世紀)としては園部高校から出土した小桜古墳であり、近世になって園部城築城の際に取り壊されたようです。後期古墳(6〜7世紀)としては、北部に熊崎・熊崎墓地・新堂池・瓜生野、中部に尾谷(上木崎)・穴武士(黒田)・山の井(曾我谷)・小山(小山東)・天神山(小山東)・温井(横田)・安谷(半田)・中殿(半田)、南部に普済寺(若森)・にわとり塚(埴生)などの各古墳群が町の中心部を取り囲むように同心円状に分布しています。また、窯跡群も多く発見されており、城南町の「壺ノ谷」から小山西町「桑ノ内」「高杭」「大向」、小山東町の「徳雲寺窯跡」に至る窯跡、そして口司鎌掛峠にも窯跡が確認されています。これらは古墳時代から平安時代のはじめに至るまで操業された口丹波で最も古い窯です。

<飛鳥〜室町時代の園部>
大化の改新によって、地方制度は、国・郡・里(後に郷に改められた)に分けられることになりました。丹波国は船井郡を置き、その下に里を置くことになります。丹波国には、桑田郡(京都市京北・亀岡市・北桑田郡)、船井郡、天田郡(天田郡・福知山市)、何鹿郡(綾部市)、多紀郡(篠山市)、氷上郡(丹波市)があり、多紀郡、氷上郡は現在は兵庫県に含まれます。
摩気神社(竹井)、鏡神社(口司)、薮田神社(南大谷)

平安時代(9〜12世紀)に入ると全国的に荘園がふえ、口丹波の荘園も摂関家の領有するところとなります。園部においても藤原忠道の娘の領する「今林荘」(内林町今林)、藤原道長の領する「野口荘」(西本梅・東本梅)、藤原基通の領する「桐野荘」(川辺・桐ノ庄)、藤原兼信の領する「嶋村」(小山東町)などがありました。町内各地の社寺の創建もこの頃に始まります。これらは、源頼朝が鎌倉幕府を開き武家政治が発足(13世紀)すると、荘園も藤原氏領から源氏系荘園へと移ります。
九品寺(船阪)、城崎神社(上木崎)、春日神社(高屋)、弁財天社[厳島神社](生身天満宮境内)、玉泉寺(佐切)

やがて足利尊氏による室町幕府(14〜16世紀)が始まると、蜷川親朝が蜷川城を築き、口丹波を監視することになります。また、この時分に足利尊氏によって普済寺(若森)、丹波国司の藤原兼信の直系14世の兼音によって徳雲寺、室町時代の建築様式を今日まで残す大山祇神社(大河内)が建立されました。やがて、荒木氏綱によって篠山八上城の出城として小向山山麓に薗部城が築かれることになります。氏綱の子、久左衛門氏兼は「天満宮制札」を生身天満宮に出しており、これは現在府指定文化財に指定されています。この制札は薗部城主として「1.園部村天神社に入り乱妨狼藉をしないこと、1.天神社境内の竹や木を切り取らないこと、1.これをおかした者はきびしくとがめること」を示したものでした。しかし薗部城は、室町時代の天正6年(1578年)4月10日に、明智光秀による丹波攻めによって落城し、その後は明智光秀の軍に従うものの、光秀の滅亡とともに衰退していきます。

<江戸時代の園部>
徳川家康によって江戸幕府が開かれてから、園部の地は国替えによって但馬の国出石より園部へ移封となった小出吉親によって治められることになりました。小出吉親は無城主格の外様大名であったため、薗部城跡(荒木氏綱がたてたもの)に天守閣を築かない陣屋型の園部陣屋を築きました。しかし、小向山を取り囲んで外堀・内堀・中堀が設けられたその様相は、城そのものでした。以後、園部藩は、明治4年の廃藩まで250余年の間一度も国替えもなく安泰でした。当時、小向山一帯には寺社が密集しており、城下は門前町的な雰囲気を持っていたと伝えられています。宮町の名はおそらくその名残りだと考えられます。吉親は、築城32年後に小向山にあった生身天満宮と福量寺を天神山麓へ、大乗寺や香林寺も現在地の上木崎へ、妙光寺は現在の新町へ移すなど場内を次々と整備しました。城郭は、園部盆地の中央を占める小向山を中心に、北に園部川、西に半田川、南と東に中掘を儲け、城郭をめぐって2キロメートルにわたる外堀を構え、本丸には、大玄関・大書院・巽櫓・太鼓櫓・乾櫓等があったといいます。
一方、城下町の整備にも力を注ぎ、まず町域拡大のために園部川の付け替え工事が行われました。当時、園部川は園部大橋上流からほぼ今の国道9号線沿いに東へ流れていたのを、北に半円形に迂回させるように流れを変えました。園部川は水量が豊富で、江戸時代を通じて水運に利用され、年貢米などを積んだ船がくだってきては大橋の上流で陸揚げされました。今もその地を「運上(うじょう)」とよんでいます。城下町の規模は、南北6町(1町は約109メートル)、東西4町、町数は「上本町」「下本町」「宮町」「裏町(若松町)」「新町」「大村町」で、町屋は430軒余、77軒の下級武家屋敷がありました。
園部藩領は「園部町(宮町、上本町、本町、若松町、新町)」「園部村(美園町、小桜町、栄町、城南町、小山東町、小山西町、横田)」「川辺村(船岡、高屋の一部、熊原)」「桐ノ庄村(内林、瓜生野、熊崎、木崎、新堂、曾我谷、上木崎、河原町、岡田の一部)」「摩気村(竹井、仁江、船阪、大西、宍人、半田)」「西本梅村(南八田、天引、法京、大河内、埴生の一部)」「東本梅村(南大谷)」でした。

<明治・大正時代の園部>
徳川幕府が新政府に政治の実権を返した「大政奉還」の翌年、つまり明治元年、幕末に諸藩が廃城へと動いたのに対し、新政府側であった小出氏の園部陣屋は、守りをさらに堅固なものにし、小向山を詰の丸とし、山頂には折の篭城戦に備えた三層の天守閣相当の櫓も築く大改造を施し、園部城へと昇格することになります。というのも、この年の1月3日、薩摩・長州を中心とした明治新政府と、旧徳川幕府軍が、京都の南、鳥羽・伏見で激しい戦い(戊辰戦争)を繰り広げており、京都に近く、山陰や大阪への交通の要所でもあった園部は、御所が攻められそうになった場合に速やかに明治天皇をお迎えし、幕府と戦う体制を整えておく必要があったのです。しかしながら、結局、園部が戦場になることはなく明治政府が落ち着いた。明治5年に、役目を終えた園部城は、皮肉なことに大改造後わずか4年で、そのほとんどが取り壊されてしまうことになります。 本丸跡は明治20年に船井郡立高等小学校が建設されて以来、学校敷地となり、現在は京都府立園部高校の敷地として使われています。城門および隅櫓、番所は今もなお現存しており、園部高校の校門になっています。時代劇のロケでよく使われます。

 

 

 

 


明治4年には廃藩置県によって県がおかれ、園部県庁は小向山におかれました。同年11月には京都府の直接支配となり、12月には京都府庁支庁がおかれましたが、明治6年に支庁は出張所となり、桑田・船井・何鹿の三郡を治めました。明治22年に町村制実施に伴い、園部町、園部村、桐ノ庄村、河辺村、摩気村、西本梅村、東本梅村となりました。明治5年に園部郵便局、園部裁判所、明治7年には園部警察署、明治15年には園部二等電信電話局、明治29年には園部税務署などの国の出先機関が開設され、郡政の中心地としての園部の姿が整っていきます。また、明治32年には京都-園部間に鉄道が開通し、43年には舞鶴まで延長されました。(上の写真:旧園部駅)明治5年に教育制度が定められたことに伴い、同年6月に「明新堂(現園部小学校)」を設立したのをはじめ、園部の各地に順次小学校が設立されました。船井郡の中心として中等教育機関も多く設置され、明治20年には「船井群立園部高等小学校」(下の写真左)、明治41年には「船井郡立園部高等女学校」(下の写真中央:校門附近、右:授業風景)、大正4年には「淇陽学校(府立)」、大正15年には園部城跡に「府立園部中学校(園部高校)」、昭和3年には天神山麓に「菊花高等女学校」がそれぞれ開校しました。


 

 

 

明治から大正にかけて軽工業も発達し、日本ビロード工業界の草分けを誇るビロード工業は大正11年に園部の発明家によって考案された織機を備えた「藤本ビロード工場」として発足し、近畿鋳物界の北方の重鎮として名高く、月産55トンもの能力を持つ「園部重工業株式会社」も大正2年に設立されます。

 

<昭和・平成の園部>
船井郡の中心としての園部町も、昭和に入って隣接村を合併して大きくなっていきます。昭和4年には園部町、園部村、桐ノ庄村が合併し、さらに昭和26年に河辺村を、30年に摩気村・西本梅村を、33年に若森・南大谷を合併編入して現在の園部町となりました。(左の写真:合併祝賀パレード)昭和に入っても、船井郡の中心としての園部には、専売公社園部出張所(昭和6年)、現在のハローワークである園部職業紹介所(昭和10年)が開設され、戦時中には大阪造幣局も園部へ疎開してきます。明治22年には新制中学校が発足し、24年に旧制園部中学校は「府立園部高等学校」となり、26年には菊花高等女学校は「聖家族女子高等学校」となり平成13年に校名を「京都聖カタリナ女子高等学校」に変更ました。

 

参考文献:園部町教育委員会『園部の歴史〜郷土の資料〜』、園部文化博物館『常設展示図録』、園部文化博物館『園部藩と城』、新園部町発足50年記念誌『園部』

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