るり渓について学ぶ

“なめら”と呼ばれていた時代のるり渓
るり渓が「るり渓」と呼ばれるようになったのは、明治時代に観光地として命名されてからのことです。それまでは、この一帯は「滑(なめら)」「滑石(なめら)」または「滑渓(なめら)」と呼ばれていました。では、「なめら」と呼ばれていた時代のるり渓について振り返ってみましょう!

(1)太古の”なめら”
瑠璃渓谷の岩石は約7000〜8000万年前頃の凝灰質泥岩、流紋岩質凝灰岩などの火山噴火によってもたらされた噴出物が約1500メートルの厚さいで堆積しており、ちょうど地球が現在の地形を形成し始めていた時期のものだそうです。そして、この岩石が年月を経て、河川(園部川)の侵食によって削られ、様々な形を造形してできたのが、この瑠璃渓谷なのです。ですから、人間がこの大河内の地に住み始めるずっと昔から瑠璃渓谷はあり、清水はこんこんと流れていたということになります。

(2)中世の”なめら”
大山祇神社を紹介したページにも書きましたが、園部の奥地にある、るり渓周辺(大河内)に人が住み始めたのは中世になってからのようです。そのころ大河内は「湯原村」と呼ばれていました。湯原村は、天慶の乱(939〜941年)後、藤原純友(すみとも)の弟である純索(すみもと)が再起を志して奥山であるこの地に隠世をしたことにはじまるとされています。以後、この地は、こうした敗残者が世間に知られずに隠れ住む里であり、この村で林業や農業を営み暮らしていた人や修験者(人里は離れた山で修行をする人)だけが知っている「秘境」が“なめら”でした。そして建徳2年に湯原村を大河内村と改名しました。

(3)近世の”なめら”
幕藩体制のもと、この大河内は園部藩に属しており、毎年、年貢を藩主である小出氏に納めていました。やがて、沢庵禅師に師事し、禅の精神を背景とした書画・詩にすぐれ、後水尾天皇の厚い帰依を受けた一絲文守が、禅の追求のために1941年に、大河内から近い亀岡の畑野町に浄法寺(臨済宗)というお寺を建立します。浄法寺にお参りする人々は大河内村の杉ヶ沢を通ったため、“なめら”は次第にその美しさを世に広めていくことになります。これにともない、園部藩、亀山藩(現:亀岡)、篠山藩の武士がたびたび訪れる場所にもなっていたようです。るり渓12勝の中に、浄法寺の一絲文守がその上で座禅を組んだという座禅石があります。

 

“なめら”から、天下の名勝「るり渓」へ
明治時代になり、廃藩置県によって園部藩であった大河内村は京都府船井郡西本梅村となります。しかし、西本梅村は人口も少なく、山に囲まれているため、とても裕福な村ではなかったようです。そこで、“なめら”の存在を世に広めることで村の発展を考えたがいたのです。後に“なめら”を天下の名勝「るり渓」へと変えた人物のひとりである、高田宇太郎と竹内源太郎でした。明治38年に、それまで長い間親しまれてきた“なめら”が、村の期待を一心に背負った「るり渓」へと変わりました。「瑠璃渓」という名は、竹内源太郎と一緒に“なめら”を訪れた船井郡長三宅武彦が、“なめら”を世に広めるために命名しました。そして明治40年には、竹内源太郎を顧問、高田伝次郎を代表とした「るり渓保勝会」が発会し、大々的に宣伝活動を繰り広げることになります。やがて「るり渓」の宣伝活動は甲斐あって、次第に世の中に浸透していき、全国各地から観光客が集まるようになり、“なめら”の名も地元の人だけが知る言葉になっていきました。 そして当時の西本梅村の村長であった奥村英一も忘れてはなりません。文部省関係の人間を「るり渓」に視察に招いたり、自らも度々東京へ交渉しに向った結果、ついに昭和7年に文部省・国指定の名勝として指定を受け、さらに昭和24年には京都府立自然公園として指定を受け、園部町と合併して現在に至ります。

 

人造湖“通天湖”をつくったわけ
るり渓の渓流を登っていくと通天湖がゴールとなります。この通天湖は昭和17年3月31日に竣工した人造湖で、この湖を「通天湖」と命名したのも竹内源太郎でした。では何故、名勝の上に人造湖を建設するに至ったのでしょうか?その謎にせまります。
通天湖は砂防ダム(砂防堰堤)という種類のダムです。砂防ダムは、豪雨などによって土砂と水が一緒になって川に流れ下る土石流を直接受けとめて、下流に流れ下るのを防ぎ被害を防ぐ一方、土砂を貯めることで、両岸の山すそを固定し、山腹の崩れを押さえる事もできます。豪雨時にダムに、たまった土砂は、平常時に水の流れによって、徐々に下流に流されていき、次の豪雨に備えます。
るり渓を流れる渓流「園部川」は、いろいろな河川と合流しつつ市街地まで流れ、やがて桂川となります。るり渓上流一帯の土質は非常に脆弱で崩壊した場合、西本梅村一帯はもちろん沿川の人家や田畑に大きな損害をもたらす恐れがあり、また「るり渓」の景色が破壊されないよう保護するためにも砂防ダムの建設は必須だったといえます。ダムにより脆弱な地盤の強化、川に流れる水量調節、田畑への灌漑用水の確保と一石三鳥の効果を持ったダムとして通天湖は建設されました。人造湖ではありますが、天然湖に近い環境を維持しており、通天湖から流れ落ちる、見事な“水の大カーテン”は、るり渓12勝のひとつとして数えられています。

また、るり渓から流れる園部川は、今も自然の姿をとどめる美しい清流で、町の鳥であるカワセミの生息地にふさわしい自然豊かな流域で、特にるり渓下流の仁江地区一帯においては京都の自然200選にも選ばれています。運がよければ、カワセミに出会えるかもしれません。また、るり渓には、特別天然記念物に指定されている世界最大の両生類「オオサンショウオ」も生息しています。

 

るり渓高原(奥るり渓)の開発
休日は第1・2駐車場共にほぼ満車になる(左写真:第2駐車場)ほどの人気ぶりの「るり渓高原(奥るり渓)」ですが、その開発の歴史について見てみることにしましょう。
現在となっては、るり渓温泉や公園、ゴルフ場が広がっている奥るり渓一帯ですが、かつては裏田が広がる田園地帯でした。京都から34km、大阪から39km、神戸から43kmのところにある「奥るり渓」は、比較的古くから観光資源として注目を浴びており、開発の計画もあったようですが、幸か不幸か、実際、本格的な総合開発に乗り出すきっかけとなったのは「ナイキ基地問題」だったようです。1970年代初頭にるり渓の奥にある深山(標高791メートル)周辺が航空自衛隊の防空ミサイル「ナイキJ」の基地に内定していることが明らかになりました。「ナイキJ」とは、米軍のナイキ・ハーキュリーズを設計変更した国産防空ミサイルで、深山に設置すると、防空範囲は二府八県に及ぶといい、ミサイル9基とレーダ4基と爆薬庫、整備施設、居住設備などを70ヘクタールにわたって建設する計画だったようです。しかし、これらの施設は、るり渓の景観および憩いの場を奪うばかりでなく、発車後のブースター落下によって住民が直接危害と不安にさらされることになるため、園部町、能勢町、京都府から大規模な反対運動が巻き起こりました。そして、その当時、奥るり渓一帯を観光用地にと回収をしていた能勢電鉄株式会社は、用地を計画通り観光開発に使うことと、園部町ならびに大河内区民の希望に沿う開発をすることを園部町と約束します。

やがて、園部町と土地所有者である能勢電鉄は鋭意を進め、昭和48年(1973年)に「るり渓開発株式会社」を設立し、雄大な自然の景観を生かした全27ホールの大ゴルフ場の開発に着手、昭和50年(1975年)に「るり渓ゴルフクラブ」がオープンしました。続いて園部町も昭和55年(1980年)に、奥るり渓に広がる約100ヘクタールの土地を買い占め、奥るり渓の総合開発が本格的に開始されます。奥るり渓開発は事業費数十億の一大プロジェクトであったものの、各種団体や、奥るり渓開発に賛同する多くの企業からの多額の寄付のおかげあって、町の財政からの実際の支出は2〜3億円程度でした。庁内の体制でも、専任の担当課も置いておらず、みんな兼務でやっており、「自治体が金を使わずにこれほどの事業ができるのか!」と全国各地から視察団がひっきりなしだったそうです。以下は、開発の内容です。

 S56年(1980年)「奥るり渓総合開発基本構想」樹立
            「ファミリー牧場」オープン(園部町農協)
 S57年(1981年)府下初のサイクリングターミナル「こぶし荘」オープン(財団法人日本自転車道路協会)
            るり渓汚水処理施設(園部町)
            「多目的グラウンド」「ゲートボール場2面」オープン(園部町)
            「府立るり渓少年自然の家」オープン(京都府)
            大河内簡易水道拡張(園部町)
            府下初の「野外ステージ」オープン(日本宝くじ協会)
 S58年(1983年)「生活環境保全林整備事業」70ヘクタール(京都府) 〜S60年(1984年)
            「勤労者野外活動施設」オープン<センターハウス、ローラースケート場、トリムコース、
                                 全天候型テニスコート4面、展望広場>(財団法人雇用促進事業団)
 S59年(1984年)「物産物開発センター」オープン(園部町農協)
            センターハウス前庭園「花の広場」オープン(園部町)
 S60年(1985年)日本初「石の動物公園」オープン(久保田家石材商店寄贈)
            国体「ライフル射場」オープン(京都府) ※国体後は体育館に転用
            「水車小屋」オープン(京都上高野より移設)
            るり渓温泉掘削成功、こぶし荘に「奥るり渓温泉」オープン
 S63年(1988年)「フラワーガーデン」オープン(園部町)
 H6年(1994年) ネパール友好館「パゴダ」オープン
 H8年(1996年) るり渓温泉掘削成功
 H10年(1998年)「こぶし荘」リニューアルオープン
 H11年(1999年)フラワーガーデンに日韓交流記念「ムクゲ」植樹
 H12年(2000年)るり渓高原が環境省の「国民保養温泉地」に指定
 H14年(2002年)「るり渓温泉〜心と身体の癒しの森」<温泉・プール・寝転びゾーン・レストラン・土産販売>がオープン
           こぶし荘が「こぶし荘 花あかり」としてリフレッシュオープン
  H15年(2003年) 「ハミングバード通天湖」オープン
  H16年(2004年)フラワーガーデンを「るり渓みどりと憩いの公園」に変更

※現在「ファミリー牧場」は閉場、「物産物開発センター」は閉館しており、特産品等の販売は「るり渓温泉」内の「スーベニア」で行っています。「ライフル射撃場」は国体後は体育館として使われていましたが解体、跡地には現在「るり渓温泉」が建っています。

参考文献:本梅探求会『るり渓』、広報そのべ、るり渓観光案内、他

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