園部城と城下町

日本で一番最後に造られた城「園部城」
徳川家康によって江戸幕府が開かれてから、園部の地は国替えによって但馬の国出石より園部へ移封となった小出吉親公によって治められることになりました。小出氏は無城主格の外様大名であったため、薗部城跡(荒木氏綱がたてたもの)に天守閣を築かない陣屋型の園部陣屋を2年かけて築きました。しかし、小向山を取り囲んで外堀・内堀・中堀が設けられたその様相は、城そのものでした。
徳川幕府が新政府に政治の実権を返した「大政奉還」の翌年、つまり明治元年、幕末に諸藩が廃城へと動いたのに対し、新政府側であった小出氏の園部陣屋は、守りをさらに堅固なものにし、小向山を詰の丸とし、山頂には折の篭城戦に備えた三層の天守閣相当の櫓も築く大改造を施し、園部城へと昇格することになります。というのも、この年の1月3日、薩摩・長州を中心とした明治新政府と、旧徳川幕府軍が、京都の南、鳥羽・伏見で激しい戦い(戊辰戦争)を繰り広げており、京都に近く、山陰や大阪への交通の要所でもあった園部は、御所が攻められそうになった場合に速やかに明治天皇をお迎えし、幕府と戦う体制を整えておく必要があったのです。しかしながら、結局、園部が戦場になることはなく明治政府が落ち着いた。明治5年に、役目を終えた園部城は、皮肉なことに大改造後わずか4年で、そのほとんどが取り壊されてしまうことになります。
現在は城のあった場所に、園部高校、園部公園、国際交流会館、園部町役場、裁判所などの施設が立ち並び、行政・文化・教育の中心を担っています。比較的最近まで、内堀や、本丸の石垣は残っていたそうですが、園部高校の校地拡大や国際交流会館の建設等で埋め立てられてしまったようです。櫓門・巽櫓・番所は今でも現存で、園部高校の校門として使われていますが、他にも町内のいたるところに遺構や、当時を思わせる地形が残っています。

現在の地図と照らし合わせて見た園部城推定復元図(オレンジ色をクリックすると詳細がご覧いただけます)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

赤字:現在の施設など、黒字:江戸時代の施設・地名
※参考文献:園部文化博物館常設展示図録

小出氏の御廟所
佛教大学の園部キャンパスのある戸倉山山頂に、ひっそりと歴代の園部藩主の御廟所は立っています。大学の敷地の、それも中央にあるため、むやみに出入りすることはできませんが、ぐるりと塀に囲まれて、初代藩主吉親公の供養塔(五輪塔)を中心に9代藩主までの供養塔(五輪塔)が安置されています。五輪塔は高さ約3mあり、この辺りでは他に見ることのできないほど壮大な五輪塔群なのだそうです。 五輪塔は上から順に「空・風・火・水・地」と彫刻があり、これは「国家の安泰と他界した者への鎮魂を願う意味がこめられている」といいます。姫御廟所は、小出氏の菩提寺である徳雲寺にあり、歴代藩主の肖像画を始めとする、ゆかりの品々が多く残っています。

 

 

 

 

 

城下町に残る町屋
もともとの園部町域(宮町、上本町、本町、若松町、新町)である、京街道(旧国道9号線)沿いの商店街一帯には今でも町屋が多く現存しています。海保青陵の文化10年(1812)の「稽古談」によると、京都と比肩しうる程の町家が建ち町並みが整備されていたといいます。確かに、現在でも歩いているだけで、昔ながらの町屋や、店舗に改造した町屋(なかなか一目では気付きにくいですが多いです)が目に付きます。じっくり町並みを見ていると、何か新たな発見があるかもしれません。

園部の町は、古来から京都向けの食べ物を多く生産してきた町でもあります。創業150年の「くりや」、400年の「かどや」、100年以上の「淡路屋」など多くの老舗が今でも軒をつらねており、今でもその味を求め全国各地から人が集まって来ると聞きます。代々、味を守り続けて数百年、その歴史こそ確かな味の証。今はやりの「観光ブーム」のように、何か先に“モノ”があってつくられた町ではなく、昔からずっと愛されてきた味があるから人が集まってくる、これこそ理想ではないでしょうか。お店の紹介など詳しくは、園部のオススメスポットをご覧ください。


 

 

 

 

 

 

 

園部川と運上(うじょう)
もともと園部川は、園部大橋上流から、ほぼ今の国道9号線沿いに東へ流れていました。しかし、園部藩の経済活動を支える城下町を拡大する際に、園部川の付け替え工事が行われ、今のような弓状に北に迂回させるコースになりました。この工事で特に力を注いだのは、城下町を守る堤防を強くすることで、堤防には多くの巨石をしきつめ、堤上には竹や樹木を植えて堤防を補強しました。この堤防を、人々は吉親公の号から「意閑堤(いかんつつみ)」と呼ぶようになりました。 園部大橋の南詰に生身天満宮神輿渡御の御旅所があり、稲荷神社(下の写真左)が祭られています。吉親は、園部川を迂回させたとき、川の流れのきつく当たるこの場所を堅固な石積を組んだ二重の堤防にし、その上にお稲荷様を祭って、城下町を守る神としたそうです。

この稲荷神社の向かいの川岸に「石川楼」という旅館があります。(下の写真左)石川楼は、かつては“楽志亭”と呼ばれ、代々の園部城主が舟遊びをした場所でした。(下の写真右)今でも地下の物置にその当時の船着場への石段と吉親がつくったとされる意閑堤防の遺構の一部が見られます。

 

 

 

 

そして、園部大橋上流の半田川と園部川が合流するところには、「運上(うじょう)」とよばれる船着場がありました。(上の写真中央)園部川は水量が豊富で、江戸時代を通じて水運に利用され、年貢米などを積んだ船がくだってきてはここで陸揚げされました。この運上には、汲水口(下の写真左)があり、ここから取り入れた水は、城下町の道の両側を流れ、風情をかもし出すと同時に、園部の町のすみずみまで潤す役目を担っていました。(下の写真右)

 

 

 

 

参考文献:園部町教育委員会『園部の歴史〜郷土の資料〜』、園部文化博物館『常設展示図録』、園部文化博物館『園部藩と城』

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