園部の鉄道物語

私鉄「京都鉄道」による京都-園部間の鉄道施設
京都-園部間に鉄道が敷かれたのは、明治32年(1899年)8月15日。それまでの、朝暗いうちに乗っても京都に着くのはすっかり日が暮れてしまう舟(さらに川が増水すれば文句なしに運休になる)や、5〜6人乗りのボックスを5時間かけて引っ張った馬に代わって登場した汽車は、わずか1時間40分で京都-園部間を結び、当時の丹波の人にとっては驚きの的でした。蒸気を吐いて走る汽車は、たちまち人気者となり、弁当持参で見物に来る人もいたといいます。また、開通記念に園部-嵯峨間が無料になると、駅舎の前は大勢の人でごったがえしたそうです。(左の写真は夕方のラッシュ時の園部駅2番ホーム)

鉄道を施設する話が持ち上がったのは明治21年(1888年)。舞鶴に第4鎮守府が設置されることになり、軍事上、丹波に鉄道施設が問題化してきたのをきっかけに、政府は22年に京都-舞鶴間の実測を開始します。やがて26年に、田中源太郎代議士(亀岡出身)らが京都鉄道会社を設立し、ついに28年、免許が下付されることになります。工事は29年、京都から着手され、30年に京都-嵯峨間が開通。そして32年に園部-嵯峨間が開通します。当時のことですから、主にクワやスコップで掘り、モッコで運搬するといった作業ぶりで、工事は困難を極めました。特に保津峡付近は切り立った峡谷に分厚 い岩盤、う回路を探そうにも周囲は険しい山ばかりで、何度も建設計画が中断される危機もあったそうです。 しかし、ダイナマイトのおかげあって、なんとか切り立った崖に穴をあけ、谷間に鉄橋を架け、レールを施設します。その保津川峡谷を渡る鉄橋は、97mにもおよび、その当時としては日本一の長さだったといいます。
また、この鉄道施設にあたって、多くの障害や弊害も起こりました。当初、京都鉄道会社は園部の新町に園部駅を建設しようと計画していました。しかし「火を噴く車が通ったら家が火事になる」と、住民が猛反発し、町外れの現在の位置に駅を造ることになりました。明治の時代ですから、木造家屋がほとんどで、実際に洗濯物や家に機関車から飛び火して火事になるという事例も各地で起こっていました。町屋が密集している市街地に鉄道を通すことを懸念した当時の人たちの気持ちも分からないではないでしょう。このようにして、鉄道は園部の街の中心部を避けるように施設されることになります。一般的には駅=「街の中心」ですが、園部の場合はそうではないのです。 一方、亀岡の篠村では駅設置を運動したが、目的を果たすことができなかったため、32年9月、園部発京都行の終列車に置石をするなどの妨害事件もあったようです。

このようにして京都-園部間は3年がかりでやっと開通します。当時の駅の数は、園部・八木・亀岡・嵯峨・花園・二条・丹波口・大宮・京都の9駅で、京都-園部間は一日5往復、所要時間は1時間45分でした。運賃は、一等、二等、三等に分けられ、京都まで一等が1円29銭(3940円)、二等が86銭(2627円)、三等は43銭(1313円)で、子ども料金は4歳未満は無料、4歳以上12歳未満は半額となっていました。これほど運賃が高額であったにもかかわらず、ほとんど満員だったということは、人々にとって鉄道がいかに便利であったかが、うかがい知れます。
やがて、昭和37年(1904年)11月3日には園部-福知山間が開通し、私鉄だった京都鉄道は昭和39年(1906年)3月31年に公布された「鉄道国有法」により昭和40年(1907年)8月1日に国有鉄道となり、園部駅も帝国鉄道庁の所管となります。国有化されることで、大きな資本によって車両は逐次改善され、運転本数も増加し、口丹波地方の文化・経済・産業の発展に大きな原動力となりました。

しかし、大正11年(1922年)4月3日に事故は起こります。午後5時35分頃、保津川鉄橋を通過中の園部発京都行列車が脱線し、大量の乗客とともに谷底へ転落してしまうのです。名声の絶頂から奈落の底へ、たまたま乗り合わせていた田中源太郎氏も大勢の乗客とともに死去することとなります。しかも、川船や筏で関係者はもちろん周辺住民によって川底をさらい、多くの乗客の遺体は引き上げたものの、田中氏の遺体だけがどうしても見つからず、行方不明になります。そこで事故現場へ祈祷師を呼び見てもらうことにします。すると、鉄道のトンネルを掘る時に、地鎮祭もせずに、どんどん発破をかけて掘ったので、山の神さまがご立腹なさっているという託宣が出ました。そこで、事故現場の山を探してみると、仰せの通り“大山大神”と“大山姫大神”を祭る小さく粗末な祠がみつかりました。さっそく、それを”大山弁天”として野宮神社(ののみやじんじゃ)にお祀りしたところ、あれだけ探してもみつからなかった田中氏の遺体が嵐山の渡月橋付近で発見されます。自らの自慢の鉄橋で死すとは、なんと数奇な運命でしょう。。
その後、鉄道は、さらに出雲まで伸び、昭和45年(1970年)8月1日には京都線改め山陰本線となります。平成元年(1989年)3月5日には嵯峨-馬堀間が複線化され、保津峡が新線に切り替わります。平成2年(1990年)3月10日には園部-京都間が電化され、アーバンネットワークとして「嵯峨野線」の愛称がつきます。旧線は、景観の良さから平成3年(1991年)から嵯峨野観光鉄道として、トロッコ列車が走っています。

※園部駅についての詳細は「園部の玄関 JR園部駅」をご覧ください。

About me | Contact me | Sight Map |
Copyright(c) 2000-2006 morimoch. ALL Right Reseved.